2017年4月24日月曜日

働かざる者食うべからず


官僚や学者に言われたくない


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「週刊現代」2017年4月29日号日本人はすでに先進国イチの怠け者、労働生産性も最低「働きすぎは悪」「仕事よりコンプライアンス」日本全体がそんな方向に進んでいる。しかし、本当にそれでいいのか。誰も頑張らないし踏ん張らない、そんな国に未来があるのか。

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51507
『データブック国際労働比較2016』を見ると、  
'14年の週労働時間(製造業)で日本人はG7(先進7ヵ国)の中で労働時間がかなり短いほうだ。厚生労働省が調べた日本の週労働時間(製造業)は37.7時間。調査対象に各国でバラツキがあり、一概には言えないが、米国の42時間や英国の41.4時間、ドイツの40時間、フランスの37.8時間、カナダの37.1時間と変わらない水準(イタリアの数値は未掲載) 
それでも日本政府は、日本人は今でも働きすぎだと主張し、繁忙期の残業時間を月100時間未満にするなど、長時間労働の規制を含む「働き方改革」を推進しようとしている。安倍晋三総理も「働き方改革実現推進室」で「『モーレツ社員』の考え方が否定される日本にしていきたい」と明言
おいおいチョット待てよ安倍さん
おかしいと思うぞ。

今の日本の豊かさの礎を築いたのは、長時間労働を物ともしない高度経済成長期の「モーレツ社員」たち。それを否定することは日本のさらなる成長を諦めることにならないか。
そのとおりやろ
提唱しているのは
官僚や学者の諮問会議。
あんたら長時間机にかじりついて
あれこれ思考し実験等して現場より長時間働いるやろが
そういう机上の空論で現場で動いている人間を
あれこれ言われたくないぞ
物事は現場で動いとるんや。
豊かさは労働の対価、成功した金持ちは一日24時間
夢の中でも考え働いとる。

元東海銀行専務
名古屋大学客員教授
水谷研治 さん曰く
「働く人の立場からすれば、労働時間を減らしてほしい。誰だって楽をしたい。ただ、考えてほしいのは、働かないで豊かさだけを得ることができるのか?豊かさはいらない、自分の時間がほしいというのなら、それでいい。働くのは嫌だけど、豊かな生活がほしいというのは、虫がいい。仕事の時間を減らすべきという人は、今の日本の豊かさが今後も続くと考えているのかも。しかし、現実はそれほど甘くない。
「すでに日本の国際的な地位は急速に低下し
かつては大きく引き離していた中国などの新興国にも追い上げられている。
彼らは必死に働いています。気がついたら、日本が後進国になっていた
ということもないとは言えません。
ただでさえ、日本ではさらなる少子高齢化が進み、経済力=国力の低下は
避けられない。
一人ひとりが働かなくなれば、坂道を転げ落ちる。
むしろもっと働いて、技術を磨かなければいけない。
 
働くことはいつから「苦役」になったのか余暇を楽しむのが人生?
残業時間の量よりも大事なこと。
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/51300

質を上げないで労働時間減らしても意味がないし
労働の効率をあげ、その結果生まれた時間が余暇。
今は余暇と労働はあらかじめ別計上な
ご時世になっている。
戦争で勝った欧米諸国が徹底的に日本を研究して
国民を怠け者にしてしまえば日本が欧米諸国に
刃向うことはなくなると考えた施策は
今になってじわりじわりとボディーブローのように
効いてきているのかもね。
無理が利く若いうちに苦労をしておけば
それがひいては
国家や国民を富ませることになる。
今のご時世楽ばかりしようとする若い人が
多いような気もする
労働は苦役で悪というのは欧米の価値観、
日本は神様でさえ働いてた。
神様がやることは悪はでない。
善のみ。
故に労働は善。
それが日本の価値観じゃないのかね?
少しだけへそ曲がりして立ち止まり振り返れば、
もう少し景気も上向くと思うけどね
へそ曲がりなカッパは・・・
働かざる者食うべからず。

2017年4月2日日曜日

日本は天皇の祈りに守られている

「神話とは神代の物語」

江戸時代は
「神代巻しんだいかん じんだいまき」と呼んでいた
「神話」は、“myth”の翻訳語で、明治32年から一般でも
広く用いられるようになりましたが、
しかし“myth”には、他に、「作り話「でっちあげ」「根拠のない話」
という意味もありる。
「一神教」改宗した西洋の人々から見ると
「ギリシャ」「ゲルマン」「ケルト」など
多神教の「神話」は「作り話」「でっち上げ」「根拠のない話」
にみえる。
■「安全神話」
安全だと思っているのに、それは
「作り話」であり「でっち上げ」「根拠のない話」
という意味に使われている。
自分たちの国の尊い神々の物語を「神話」という内部に
毒を秘めた言葉で呼んで良いのか。
学生と話をしていると、
「えーっー“つくり話”じゃなかったんですかぁー」と、
「じゃあ、あなた達は、伊勢の神宮も全国の神社も
みんな“つくり話”をもとにして、何千年も続いてきたと思っている?」
学生らもちょっと考えた後、
「そう言われてみれば、確かに変ですねぇー」
ソクラテスは、神話について人間とは
2500年経っても、あまり進歩していない。
故に一般に認められているとそのまま信じる」
と語っている。
しかし、この「ソクラテスの忠告」
にもかかわらず、
紀元前4世紀シチリア島に生まれた哲学者、神話学者である
エウヘメロスが『神論』の中で
「人々の崇敬を集めている神々は、元来、地方の王または
征服者であったが、人々の感謝の念がいつしか、彼らを神にした」
という仮説を立て
やがて、古代キリスト教が成立する時代になると
キリスト教徒は、ギリシャ・ローマの神々を滅ぼす為、
「お前たちの信じる神々は、所詮人間に過ぎない。
エウヘメロスという大学者もそう言ってるじゃないか。 
それに比べたら、我々の仰ぐ神=ゴッド創造主は、人智を超えた
唯一絶対の存在である。 
だから、これまでお前たちが信仰してきた神々と称する
人間への信仰を捨て、
私たちが信じるキリストの信仰に帰依せよ」
エウヘメロスの「神話学」によって
ギリシャ・ローマの神々は
「聖なるもの」が失われ、既に、「神」から「人」に
転落していたわけですから
この様な攻撃に、ひとたまりもなかったわけです。
こうして、ギリシャ・ローマの神々は、
一神教の前に屈服してしまいる。
日本人には、ピンと来ないかもしらないが
世界の宗教闘争は過酷。
今や、ギリシャ・ローマの神々を「お祀り」していた神殿は、
廃墟と云う無残な姿を留めているというのが現実です。
近現代ではアフガニスタン共和国バーミヤン州の
石窟寺院にある石仏を
政権をとったタリバン党=
イスラム原理主義を唱える党が
偶像であるとして破壊しました。
このままでは、日本の神々が
ギリシャ・ローマの神々の
「二の舞」になってしまう。
あの国の神話は、日本のこの神話に似ている。 
そうだ! それが、日本に伝わってきたのだ
と考えるのは、あまりにも単純一方的自虐的主張。
フランスの社会人類学者、民族学者でベルギー人の
レヴィ・ストロースが来日した時
「神話の起源を探る事はそもそも不可能」
こう忠告している。


「神話の起源を探る」必要があるのか?


我が国には、縄文時代から、我が国なりの文化があり
世界最古の「土器」は、日本の縄文土器
縄文時代の専門家は、
「世界の土器作りレースにおいて、東アジアが先陣を切り
その中でも、日本列島は、一番手にあった。」
そのような日本で「神話」のみが、空白地帯であったと考える事に
合理的なものはありません。
フランスの社会人類学者、民族学者レヴィ・ストロースは、
縄文文化は、土器の製作に優れ、この点では
比類のない独創性を示してゐる。
人間が作った様々な文化を見ても
この独創性に並ぶものはありません。
縄文土器に類する土器が全くない。
古さにおいてもそうで、これほど昔に
溯る土器の技術は知られておりません。
またそれが、1万年もの間
続いたことでも他に並ぶ例がありません。
と述べている。


■日本古語

縄文時代1万年の間に、日本列島の「コトバ」は
統一的なものとして形成されている。
つまり“初めに民族の一体感”があった。
「神代の物語」によって“一体感”が作られたのでは
ありません。
例えば、お風呂に入ろうとする。
その場合、湯加減を知る為の「温度計」を使って
お湯の温度を数値で「知る」人もいる。
湯加減を知る方法は、もう一つありる。
それは直接自分の手を、お湯の中に入れることです。
それによって、一番知りたいことを瞬時に
「知る」事が出来る。
そうやって「知る」事が出来た人は
「今、何度?」と聞かれても、正確な温度=数値をいう事は
ない。
だいたいxx℃ぐらい、ちょうどいい、「冷たい」くらいしか
答える事が出来ない。
客観的な数値でものを「知る」方法を絶対視している
唯物論者からすると、
その人の言葉は、とても曖昧に聞こえる。
「本当に知っているのか?」と疑いたくなるでしょう。
しかし、実は、お湯に手を入れた人こそ
「今、このお湯は入浴に適しているかどうか」
という、今、一番知りたい事を最も早く
最も正確に「知る」事が出来た人。
「温度が何度か?」「どういう器具によって計測したのか?」
などは、いわば、“どうでもいい問題”に過ぎない。
ハインリッヒ・ハイネは、1835年(天保6年)から翌年にかけ
「精霊物語」、「流刑の神々」という本を書いた。
その中で、キリスト教が、ヨーロッパの精神世界を
支配するようになってから、ヨーロッパの太古の神々への信仰が
「邪教」として抹殺されていく様子を書いている。
フランスの学者デュメジルは
「神話を持たぬ民族は既に生命をなくした民族だ」
と明言している。
今や欧米の人々は欧米式の物質文明の過ちに気付き
「神話」もしくは「神話的物語」に夢中で米国では聖書の次に
なんと教育勅語が「徳の本Virtue’s book」と言う名前で
聖書に次ぐベストセラーになっている。 
例えば「スターウォーズ」は、アメリカの新しい“神話”の1つです。
監督のジョージ・ルーカスは、ジョセフ・キャンベルという
神学者のアドヴァイスを基に、映画の構成を練り
そのキャンベルが、
「神話には神秘的な役割、宇宙的な次元、社会的機能の他に
もう1つの機能があり
現在もあらゆる人が、そこから離れてはならないと思う。 
それは、教育的な機能、いかなる状況の下でも
生涯人間らしく生きるには、どうすべきかを教えてくれる。
と言っている故 教育勅語がベストセラーになるのも理解できる。
ところが我が国は政治的な思想でも保守と革新の定義からすると
欧米とは逆になっている。
平成8年、富山の中学校で、給食の時間、全員で「いただきます」と言う行為を
、一部の保護者が「宗教的な色彩がある」と騒ぎ立て
とうとうその習慣が廃止されました。

■神代の物語

神代の物語もある意味「夢」と似たところがありる。
一見すると、「荒唐無稽」であっても
実は、そこに、民族の「深層心理」が現れている時がありる。
そこに秘められている私たちへの「教え」とは何なのか?
・・・と静かに内省する時、いつしか私たちは
今を生きる私たちにとって大切な
キャンベルが語っている「教育的機能」が
秘められている事に気づくはず。

■岩戸がくれ

アマテラス大神の「岩戸がくれ」
今も神社のお祭りには「踊り」は欠かせません。
神様に奉げる「踊り」には、閉塞した日常性を突破する
力が宿っている。
次に「笑う」事の大切さを、この物語は
私たちに教えてくれる。 
この「岩戸がくれ」は、アマテラスの「死と再生」の物語。
キリストの復活と同じような意味もある
「良い子」でいようと無理をし続けている間は
アマテラスは、まだ真の意味で、偉大な神では
なかったのかもしれず
「岩戸がくれ」という「死」を経た後、
真に偉大な神として「再生」された。
キリストも神の子として皆の罪を背負い死ぬ
この時までは偉大な神の子と言えず
磔となりそして再生し真の神の子となる。


■言霊

昔、ある高僧がは晩年に
「物欲を断つのは容易で肉欲を断つことも
壮年期を過ぎれば何でもない事であった。
しかし、最後まで自分を苦しめたのは
他の僧侶の良い評判を聞く時に生じる
嫉妬の念である」と語った。
「嫉妬」という主人には
「怒り」「怨み」「呪い」「不遇感」「被害者意識」「自己承認欲求」
という部下が居る
それら“闇の思念”に勝つことは出来ないまでも
せめて負けないようにする為の“光の言葉”を私たちは
昔から持っている。
それは、「感謝」と「祝福」
日常の言葉にすると「ありがとう」と「おめでとう」
スサノヲの神は、自分の犯した罪を背負って
「根の国」に追放されるが、その時
自分を追放する姉に向かって、別れ際に
「祝福」の言葉を残している。
日本書紀の原文では、
「姉のみこと 天つ国に照らし臨みたまひ おのづから
平安(=幸 さき)くましませ」

どうかお姉さん、これからも天上の世界を
明るく照らし続けてください。
そうしてくだされば、お姉さんも他の神々も
みんなが幸せに過ごせるから。それでは・・・どうぞお幸せに)

嫉妬心から罪を犯したスサノヲが、流離の旅を経た後は
自分を追放する姉を心から祝福するところまで
神格を高められている。
この後、スサノヲの神の舞台は、出雲に移り
スサノヲの神は、頼もしい「男」に。
もう「男の子」ではない
その境地に至るには、ヤマタノヲロチとの厳しい戦いがあった
という所に物語のポイントがある。
“リスクのある正義の戦い”を経なければ、
人はなかなか「清々しい清浄の境地」には、たどり着けない
亡き母を慕い「髭が生える歳になっても」泣いてばかりいた神が
“リスクのある正義の戦い”
に勝利し、「英雄」になり、美しい女性と結ばれ
真の「自立」を果たす。
現代の若者に聞かせたい物語。

■スサノヲ伝説
日本書紀は、スサノヲの神の流離の旅を「雨風、甚だしといえども
留まり休むことをえずして、辛苦(たしな)みつつ降りる」
意味は、強い雨が降り、激しい風が吹いていたが、どこで宿泊する事も
休むことも出来ず、大変苦しみながら、天上界から降りていかれた。
「辛苦みをたしなみ」と読ませている所に、古代の人々の深い知恵がある。
真の「教養」や「節度」は、「苦しさに耐え、努める」という経験に
裏打ちされるもの。
スサノヲの神の物語の不遇な幼少時代、流離、偉業
そして、別れ際の「いさぎよさ」などに
日本的英雄の形が現れている。
ヤマトタケル、源義経、織田信長、坂本龍馬、吉田松陰、西郷隆盛など
どこかスサノヲの神の影が漂っているかもしれない。


■軍国主義

なぜ自分の国の「誕生日」を祝うと「軍国主義の国」になるのか。
全世界の国々が、「独立記念日」という形で
自分の「国の誕生日」をお祝いしている。
今も畏怖されるのが
ある限度を超えるとブチ切れて70数年前世界138カ国相手に暴れまわった日本
のいわば 国民性である。
日本人は謙虚、しかし「鬱気質」な国民、ある線を超えると
ブチ切れて180度変わり外国への「迎合」「卑屈」そして
その裏返しで手が付けられなくなる。


■神の子孫

近代の欧米には、「神の子孫の君主」は、もういません。
しかし、元々古代のヨーロッパの王たちは、
神の子孫そされている。
例えば、古代ギリシャに、アガメムノン王。
西暦で云えば、紀元前1200年ごろの「トロイ戦争」に勝った王す。
トロイア戦争は永らく神話だと思われていましたがシュリーマンが
史実であることを証明し実在の王であることが判っている。
この王の6代前がゼウスというギリシャ神話における最高神。
古代ローマの初期の王たちも「ローマ神話」の
「ユピテール」という神の子孫。
本邦では神武帝はアマテラスから数えると6代目の子孫になるのだが
6と言う数字には意味があるかもしれない例えば
サタン、獣をあらわす数字は666。
同じことは、古代アングロサクソン民族にも云える。
7世紀の栄えた古代イギリスのノーサンブリア王朝の系図を遡ると
ゲルマン神話オーディン神に繋がっています
ヨーロッパだけではありません。
エジプトのファラオは、太陽神「ラー」の子孫です。
インカ王の先祖は、「マンコ・ガバック」という神。
ジンギスカンの祖先も「アラン・ゴア」という神。
神々の子孫が、先祖になるというのは世界的に見れば普通の現象。
ならば天皇が神の子孫であっても不思議はない。
我国の皇室以外は、「神の子孫」である君主の家系は
滅亡している。
例えばエチオピアの皇統はソロモン王につながる皇統で
3000年続いていたが革命で滅ぼされてしまい
現在は世界最古の皇統である。

ベルギー人でフランスの社会人類学者、民族学者レヴィ・ストロースは、
『古事記』は、より文学的です『日本書紀』は、より学者風
。スタイルこそ違え、どちらも比類なき巧みさをもって、
世界の神話の重要なテーマ全てを纏め上げている。 
そして、各々の神話が、知らず知らずのうちに
歴史に溶け込んでいて世界のどこを見ても、神話を構成する
色々な要素をしっかりと組み上げている所は我国以外にない。
8世紀の日本の文献ほど、広汎に綜合的材料を提供するものはない」
と発言している。

■泣いたり、笑ったり

なぜ、日本の神々は、泣いたり、笑ったりするのか?
なぜ、日本の神々は、迷うたびに、自分が神様でありながら
“独断”で判断されず、他の神々に“相談”しつつ
物事を決めのか?
それは、つまり、人もそのようにして生きてゆけば良い、という
規範。
そもそも神道には教義がない、背中を見て学ぶそれが教え
そこには、人が道を踏み外さず、生きる為の知恵が
秘められている。
アマテラスが「岩戸がくれ」した時、
八百万の神々が集まり、会議を開く。
その時、アマテラスにお出ましいただく為のアイデアを出し
そのアイデアに基づいて、現場を指揮したのは、知恵神「オモヒカネの神」
しかし、「オモヒカネの神」は、独裁者ではない。
八百万の神々の委託を受け「役割」を果たしている。 (

「大祓詞」が、今でも全国の神社で、「奏上」されているのは
「天孫降臨」の物語を繰り返し語る事によって
“時間の経過”から生じる“歪み”を元へ正す為。
それによって、日本という私たちの共同体 国家は
基点、起点に立ち戻りる。
そして、「初心に帰って」生き生きとした活動を
再開する事が出来る。
これこそが再生の物語の岩戸神話の実践


妬み嫉みの神と和する神

神の謀りごと

「旧約聖書ではエホバ、ヤハウェ 存在するもの は
はそれ以外を神として拝むことを民に禁じる。
人々が、その教えに背くと、大洪水を起こし
ノアの一族を除き己が作ったものを総て滅亡させる。
悪魔が殺した人数より神が殺した人数の方が多いのである
北欧神話にいたっては、「神々」と「巨人たち」の
最終戦争ラグナロクが起き相討ちとなり
神々の世界」が、一度、滅び去っている。
外国の「神話」の中から、この様な「残酷」な物語を上げて
いけばきりがない。
それに比べて、日本における神々の物語は、まさに
戦いが起ころうとする寸前で
なぜか、平和的に事態が収拾してしまうケースが少なくない。
例えば、イザナギの神は、イザナミの神に追いかけられても
向き合って戦う事無く、ひたすら逃走。
離婚を宣言された時も、言葉の応酬だけで終わる。
アマテラスとスサノヲの対立も、神々の“産み比べ”で
事が治まりました。
ツクヨミとアマテラスの確執も二人が交流を断つことで
昼と夜に分かれたとされる
極めつけは、オオクニヌシの
国譲り、武力を背景にした交渉を云いながら
全面戦争には至らず局地戦でおわり「交渉」によって
地上界の統治権が平和裡に譲り渡される。
この様な「平和的な政権交代」の物語は、
外国の「神話」には、ほとんど見られません。

日本では、神々が権力に「執着」する姿勢も殆ど見られない。
「旧約聖書」では自分以外の「神」を拝んだ人々を滅ぼし、
「ゼウス」は、自分の地位を守ろうとして
妊娠している妻を子供ごとのみ込んでいる。
外国の「神」は、「権力」に執着するところがある。
ところが、日本の神々は、その点、実に「あっさり」
日本人は、どういう行いが“醜く悪”と感じ
また、どういう行いを“美しく善”と感じるのか?
神代の物語には、日本人の人生観が
とても解りやすい形で、現れている。
その様な穏やかな「神代の物語」こそ
まさに、日本人の「心のかたち」を表わしたものだ。


■やまと言葉

高谷朝子さまが、お話になる言葉は御所言葉で
「・・・であらしゃいます」などという平安時代の
言葉遣いをする。
高谷朝子さまと一時間もお話していると、いつの間にか
その後しばらく妙に“上品”な言葉遣いになっているらしい(笑)

スイス人ユング派の女性心理学者
マリー=ルイズ・フォン・フランツは
神話についての豊かな知識を自由に操って
世界がどう創られたのか
創造性とは何かを明らかにし
われわれの意職がどう生まれたかを探る
「世界創造の神話」と言う著書で
「オーストラリア原住民の人々は、人間が技術を発明したのではなく
それは、人間に啓示されたものである。 
神が知識を生み出し、人は何か実地に仕事をする時、
それを使っているだけなのだ、という話を未だにしている。
だからこそ彼らは、たいてい、この認識を失った者より
優れたわざ師であり続けている
古来の信仰を持ち続けている事が
「優れたわざ師」である事を保証している
と言っている
もしかしたら、今の日本人の高い技術の背後にも
古代以来の信仰が息づいているのではないだろうか。


■働くということ

「額に汗して働くことは卑しく悪と考えるのが世界の価値観
遡ればそれはアダムとイヴが知識の実を食べ
罰としてエデンを追放された原罪 労働は悪。
と言う物語に依拠する。
しかし、日本ではアマテラスと言うオバサン嫌元へ
最高神が古事記などによると御自ら機織りつまり「働いて」いる。
神のやることは悪ではなく善。
その為、今でも日本人は、基本的に働き者。
もしも、そのような「神代の物語」以来の「労働観」を
日本人が失ってしまえば、我が国は、益々衰退していくに違いない。
神学者・若林強斎(1679-1732)の著「神道大意」(享保10年)には、
「全体的に言えることですが、神道を語る際には、解りやすく、
堅苦しなく語るのが、良い事。 
忌部正道いんべまさみち室町時代の神官で忌部神道の創始者)は、
子供の言葉を使って、神々の心を呼ぶ」と云っている。
一見すると浅はかな、子供っぽい事の中に、とても
心が晴れ晴れとするような、満ち足りて快い
何かが秘められている。

学問をするということ
学問すると神々の事が分からなくなる。
そんなものだと認める以外神様の事は
永遠に分からない。
水には、水の神霊日のは水の神霊物事総てに神霊が宿る。
あそこに、ミズハノメの神と思い、水を汲む。
火を燈す時も同じ
あそこに、カグツチの神と思って、火を大切に取り扱う。
小さな木1本を取り扱う時も、
クワノチの神、草1本を取り扱う時もカヤノヒメの神と。
兎に角、何につけても、触れるもの、出会うもの全てに、
「あぁ、有り難い」と、畏れ慎み感謝するのが神道


◆一燈照隅 万燈照国

伝教大師 最澄の言葉と言われるが
一人だけでは片隅しか照らすことができない
皆が集まれば国を照らすことができるのである。
「あれをしてくれ、これをしてくれ」という祈りより
先ずは感謝の祈りを捧げ
神様に対して、ひたすら畏れ慎み誠心を
捧げることを大切に。
最も神様が喜ぶ“祈り”。
皇后陛下は「よかれかし」という祈りを捧げておられ
真似れば充分。
「よかれかし」の祈りは、「私が」「私の」を
抜いたもの。
いわば、主語を抜いた「よかれかし」の祈り。
そのような祈りを何十年も続けていけば、いつしか
一人ひとりの心の底からの「歓び」にかわっていく。

稲盛さんの言葉をお借りすると ==

目先の利益ではなく「利他の心を判断基準にする」ということ。
私達には「自分だけがよければいい」と考える
利己の心と、
「他によかれかし」と考える利他の心
利己の心で判断すると、自分のことしか考えていないので
誰の協力も得られません。
自分中心ですから視野も狭くなり
間違った判断をしてしまいる。
一方、利他の心で判断すると
「人によかれ」という心ですから
周りの人みんなが協力してくれる。
また、視野も広くなるので、正しい判断ができる。
ですから、よりよい仕事をしていくためには
自分だけのことを考えて判断するのではなく、
周りの人のことを考え、思いやりに満ちた
「利他の心」に立って判断すべきな。

昭和天皇 御製歌会始 昭和21年(満45歳)

降り積もる 深雪(御幸でもある)にたへて 
いろかへぬ 松ぞ雄々しき 人もかくあれ

「神話を教えなくなった民族は100年続かない」

歴史学者、アーノルド・トインビーは
世界中の民族を研究して、こう言った。
「神話を教えなくなった民族は100年続かない」
第二次世界大戦以降、
日本の教科書に「神話」はない。
歴史(国史)もない、教えられるのは考古学。
ブチブチと途切れた事柄を教えられる。
ところが歴史と言うものは因果応報と言うように
途切れてはいない。
戦後7年間日本を社会実験?の意味合いも含め
占領統治していた米国は自国の国益に沿い
(と言っても共産主義者が多かった)
天皇の系譜や日本書紀などの建国の話を
「危険思想として教えることを禁じた」からである。
世界の国々で建国の歴史を教えない国はない。
共産党中国も韓国も北朝鮮でさえ教え革命で奪取し
それを正当化するために反日教育をする
寧ろ自慢げに国の歴史を語る国民がほとんどだ。

ところが、日本人は建国の歴史を知らないほうが普通で、
自国にあまり自信を持っていない。
それほど、戦後のアメリカ支配によって植えつけられた
日本人の罪悪感は国民性もあいまって強烈だった。
アメリカがことのほか丁寧に日本人の意識を変えたのは、
「天皇」に関する事柄である。
現在、日本の教科書に天皇の記述はたったの4行、
「戦前は絶対的な主権者だった天皇が、
戦後その地位を追われ、国民が主権者になった。
天皇はもはや象徴である。」という主旨。
我々が常識としている「象徴としての天皇」がここにいる。
しかし。
「天皇主権の主権と、国民主権の主権とでは、全く意味が違う。
天皇のそれは権威であり、国民のそれは権力である」
そして、それは「戦前も戦後も何ら変わっていない」
過去の日本を振り返れば、
天皇が権力を握って政治を行った親政の例は
極めて少ない。
「天智、天武、持統、宇多、醍醐、後醍醐天皇」くらい。
あとは幕末に孝明天皇が一時権力を握ったほかは、
ポツダム宣言の受諾のみ。
権力が機能不全に陥った時だけ
権威たる天皇がピンチヒッターとして政治に口をだしている。
旧憲法にある緊急事態条項でさえ事後でに議会承認が必要だった。
今の憲法は米国が日本の国防を担うことが前提だからこれがない。
だからこそ政治空白が生まれた場合の安全弁、
緊急自体条項として天皇の存在が必要
■行き詰まり
欧米式の民主主義が行き詰っているのは
ウシハク つまり権力者である国民を選ばれた代表が
私することを認めることに理由がある
権威と権力は分業させねば独裁者が生まれる。
海外の王は民を私有してきた。我が国は対等とし
君主と民が共治してきた。
つまり天皇の主権とは、大昔から権威であり、
「戦前も戦後も何ら変わっていない」

それが、戦後の喧伝によって日本人は、
あたかも天皇が主権者から
「象徴」に転落したかのごとき錯覚に
陥ってしまっている。
そんな戦後の歴史を経て、日本は
「日本が好き」という人が4割しかいない国民となった。
これは先進国中「最下位」であり、異常な数字である
http://eikojuku.seesaa.net/article/196420177.html

■神話とは「比喩」

神話は目には見えないことを表現しようとしている。
何を言わんとしているのか?
それを探る気持ちで読まなけれは、
神話は全く意味のない物語となってしまう。
「古事記」は目に見えないものを表現しようとしていて、
それを誰にでもわかるような比喩を使って
表現している。
そして名前を逐一記しているところにも、
ちゃんと意味がある。
「古事記」はまだ日本語が完成していない時代に
作られたも、から、
当てられた漢字にはほとんど意味はありません。
(音を頼りに読み解いていく)
「古事記」には我々日本人の歩んできた歴史が
比喩を駆使して生き生きと描かれている。
(ねず=小名木義行さん説)


■悲劇


今まで順調に神々を産んでいったのに
どうして火の神が生まれたことでこんな悲劇が起こるのか?
火を操るすべを得た人類は飛躍的に文明を発達させる。
現在の文明は「火」と「鉄」に支えられている。
火は同時に「力」の象徴でもありる。
武力を持ったことで感情による殺傷が始まったことを
語っているのではないか?
銃火器や刃物といった武器にしろツール 道具にすぎない。
それを扱う人の意思次第で所謂平和主義者の
言う人殺しもできれば調理など命をつなぐツールにもなる。
重要なのは扱う人の意思。
そろそろ、我々の神話=究極の古典を
取り戻しても良い時期では?